ある思いをめぐる語りのたわむれ―マルジャン・サトラピ『鶏のプラム煮』
マルジャン・サトラピ『鶏のプラム煮』(渋谷豊訳、小学館集英社プロダクション、2012年)
かのオマル・ハイヤームは語った。「この世に私が存在したとて、星辰に何の得があろう/この世から私が消えたとて、星辰の輝きがいかほど増そう/ならば私が存在するのは何故なのか?」 音楽家ナーセル・アリにとってこの世に存在する理由とは、愛用の楽器タールをつま弾くことに他ならなかった。ところが、その大事なタールを妻に壊されてしまう。
苦労して新しいタールを手に入れると、はやる気持ちを抑え、儀式を執り行いでもするかのような入念さで試し弾きに臨む。そのときのナーセル・アリの姿は実にいじましい。
(『鶏のプラム煮』P16)
だが、彼のあわい期待はすぐに失望に変わる。
「もう演奏の喜びを与えてくれるタールには出会えない。となれば、死ぬ以外に手はない―/ナーセル・アリ氏はそう決心して、ベッドに横たわった」(P17)。
こうして冒頭18ページにして、読者はこの物語の主人公の死を知らされることになる。残りのページで語られるのは、死までの8日間を彼がいかに過ごしたかだ。音楽を奪われたナーセル・アリは、今や“思う”ことしかできない。過去の回想や想像、幻想……。これらが彼の味気ない日常にまぎれ込み、やがてそれを侵食し、今なお彼の心に重くのしかかる過去のある出来事を明かしていく。
読者は最初のうちこそ戸惑うかもしれない。この物語は、コマ枠のない絵の連続で語られているのだ。やがてそこに回想や想像といった彼の思いがまぎれ込むと、背景は真っ黒に塗りつぶされる。そうすることで、コマの存在感が際立ち、安心して読めるような気になってくる。まるでオセロの盤面のように、白と黒のコマがせめぎ合う様子は、ナーセル・アリの心の勢力図を反映しているようにも見える。
死を決意してから2日、空腹であることを思い出した彼は、好物である鶏のプラム煮を思い浮かべる。
(『鶏のプラム煮』P37)
黒いコマの中に浮かび上がるつややかな鶏のプラム煮。やがてそれは女性の乳房に、そして憧れのソフィア・ローレンの姿に変身し、やさしく彼を包み込む。回想とはなぜかくも甘美なのだろう。黒く塗りつぶされたコマはそんなことも考えさせる。
物語は時折脱線し、数コマ、数ページの小さな物語をいくつも紡いでいく。飄々としたトーンは時に笑いを引き起こし、この物語をベタな悲劇にしてしまうことを拒む。物語のリレーと伝奇めいた語り口から『千一夜物語』を想像するのもあながち間違いではあるまい。この一大説話集の舞台となるイランは作者マルジャン・サトラピの故郷でもあるのだ。
興味深いのは、ナーセル・アリの死にゆくさまと彼の思いを中心に語るこの物語に、マルジャン・サトラピ自身の回想や伝聞が差し挟まれていることだ。不思議なことに、これらの逸話にはコマ枠が描かれている。コマ枠のないマンガ的な絵の連続として始まったこの物語は、コマ枠のあるいわゆるマンガとして締めくくられることになる。この語りのたわむれに、作者はいかほどの意味を込めているのだろうか? 読者としては自由にさまざまな想像をめぐらすしかないが、それもまたマンガの愉しみなのだろう。
(原 正人)